出たばかりの稲の穂と葉っぱを揺らす風。8月。
風はいつも般若心経のよう。
いくら目を凝らしてみても風自体は決して見えない。風は、風に当たった葉っぱやモノが揺れて、風が吹いているのを間接的に見ているに過ぎない。どれだけ激しく葉っぱが揺れていても、やっぱり風自体は見られない。見れないのだから風は「無い」のかと言うと、吹いてきた風は感じられるのだから確かに風は「有る」。
同じように人の心や悲しみや喜びも「ここに出してみろ」と言っても出せない。笑顔や泣き顔、喜びの文章、写真だって、揺れている葉っぱのようなもので、心自体ではない。
でも、「無」を説く般若心経は、見える・見えない・有る・無し、を説いている訳ではない。
「無」とは「変化」を言う。
吹いてきた風が通り過ぎていく、止む、強くなる、弱くなる。
心も強くなる、弱くなる。何一つとして一瞬一瞬変化しないものは無い。人も社会も人生も季節も全ては変化している。留まることがない。
留まることがない、変化し続けているから、切り取りようがない。
あると思うなよ、ずっと一瞬一瞬変化しているんだよ、これが、般若心経の言う「無」。
変化こそ万物が避けて通れない真理。ならば、変化を恐れることはない。
8月が来た。
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