5日間の島原治安維持パトロールも無事に終え、岐阜への飛行機の中で1637年「島原の乱」を読み返す。一揆軍37000人 対 幕府軍12万の戦い。
幕府軍の総大将・板倉重昌も戦死したという大激戦、結末は一揆軍37000人女子供を問わずの皆殺し。
その中でただ一人、幕府軍に内通スパイしていた山田右衛門作という絵師が生き残る。裏切りが発覚し、妻子は原城内で落城寸前に一揆軍に殺害されている。一揆収束後、キリスト教を棄教(「転ぶ」と言う)し、江戸に連れられ80歳で江戸か長崎か海外で亡くなったと言われる。一揆軍にすれば、裏切り者で唯一の生き残り。ところが興味深いことに彼は後年、禁制のキリシタンに再度転んだという。唯一の生き残りで何を思ったのか、どんな一生を終えたのか?彼の後半生は不明だ。
さて、島原の乱には超有名人も参戦している。
あの日本を代表する剣豪・宮本武蔵。負けるはずのない多勢の幕府軍側。余談ながら、元々私は宮本武蔵が好きでない。
どうせ、一揆軍を弱い者いじめして武勲なぞを挙げたのだろうな、と思いきや、原城で一揆軍の投げた石(間抜けにも2発か?)に当たり負傷。農民の投げた石に・・剣豪が・・。
一説では、巌流島の戦いでも佐々木小次郎一人相手に、宮本武蔵とその手下複数人がパコンパコン叩いていたという記録があって、なぜか私は子供の頃から宮本のおっさんが好きでない。
キリシタンに関しては、島原の乱以前1597年にも、京都から長崎まで26人を禁制の見せしめに一ヶ月引き回して処刑。(二十六聖人)
その25年後1622年には、4歳児を含む55人の処刑や、その後の雲仙地獄での拷問など激しい弾圧が続く。昔、命は軽かった。
島原の乱では領内84%の農民が一揆軍に参加し全滅したため、百姓がいなくなり領内の村も人も文化も一時途絶した。幕府は慌てて他藩から領内への移住者を強制的に募集することになる。だから、島原では例えば香川県の素麺製造技術が伝わり今だに盛ん。
「島原は、よそ者に優しい。不条理な伝統が少なく住みやすい地域。」と言われる理由の一つとして、そんな一時的な人と文化の途絶を歴史的背景を挙げる学者もいる。
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