敗戦記念日

どういう訳だか子供の頃からあらゆる戦記ものを
読むのが大好きだった。
華々しい戦闘機撃墜王ものから
「軍旗はためく下に」や「野火」のような極限
状態の悲惨な負け戦ものまで小学生なのに
片っ端から読んだ。

大人になった今ではそれら全てが腹立たしい。
何のために殺し殺されなきゃいけなかったのか。
いつの時代も権力者とお金持ちのために
庶民が戦争に駆り出され傷つき死んでいく。

今日は8月15日。
ガダルカナルでインパールで中国の奥地で、
極寒のシベリアで、友軍を食べてやっと
生き残ったニューギニアで、
魚雷で暗い海に沈んでいった多くの
なんの罪もない方々の
無念や苦しさを少しでも想像しよう。

私は終戦記念日なんて言わない。
敗戦記念日。
その呼び方の方が誰に責任があったのか
考えるきっかけになる。
終戦記念日という言い方は責任をうやむやに
するための言い方。

当時国の統帥権を持ち軍の最高司令官だった
天皇には当然戦争責任がある。
天皇は神、日本は神国、日本軍は神軍、
そう言って兵隊を戦わせ、負けるやいなや
「じつは私は神ではなく人間です」そんな宣言、
責任を取ったことにはまるでならない。
単なる保身に過ぎない。

収監も処刑も戦争責任を問われることもなく
マッカーサーに命乞いをして
米軍に沖縄の基地を自由えるよう差し出し
「恒久平和を願う」とのたまう。
そんなバカな。

軍部が無理矢理始めた戦争を天皇は渋々認め
軍部が無理矢理続けようとした戦争を
天皇が終わらせるよう御聖断を下したという
のは辻褄合わせの後付けの虚構。

調べてみると作られた平和天皇の
イメージとは随分違い
開戦当初は戦争に結構イケイケの乗り気で
作戦にまで直接介入していた事実がたくさん
出てくる。最高権力者にして神。

そして敗戦と同時にアメリカGHQの思惑通り
人間宣言をし、ついこの前まで白い軍馬に
跨っていた神様は平和イメージにコロッと
乗り換え、共産主義の防波堤の役割を
よく果たし戦争責任を不問にした。
この人の権力者としての類稀なる
保身への嗅覚は特筆すべきものがある。

そしてこれからも後ろ盾がアメリカで
あり続ける限り、何が起きても
天皇は責任を取らず天皇であり続ける。
敗戦までに310万人の方々が亡くなった。
それでもうやうやしく天皇家は続いている。
忘れないでいよう。8月15日。