長年の謎解き

私が産まれるずっと前に亡くなった
熊本のおじいさんは洋画家だった。

おじいさんは大正はじめ頃に当時
「美術界のドン」と呼ばれた黒田清輝を
頼って熊本から上京し、
東京美術学校(後の東京藝大)を受験する。

結果は不合格だった。

おじいさんは中学の頃に筋炎を患って
片脚が不自由だった。
今では信じられないが、当時の帝大は
身障者には合格が認められない。
当時は熊本から東京の学校に行くなんて
海外留学するようなもの。
不合格になったおじいさんは上野の公園の
ベンチで随分落ち込んでいたそうだ。

そこに「受験でデッサン力は抜群なのに
脚が悪くて不合格になった奴がいる」と
通りがかりの人たちの立ち話を聞く。
「それは俺のことだ!」と居ても立っても
居られなくなったおじいさんは急いで
黒田清輝教授に直談判しに行ったらしい。

おじいさんの行動力は少し自分とも
似てるけど、おじいさんの実父も
妻の義父も熊本の県会議員。
そんなツテも使って熊本の国会議員まで
動かした。
なんとその結果、黒田清輝教授は
「卓越したデッサン力がもったいない」と
大学のルールを破ってまでおじいさんを
合格にした。
それくらい当時黒田の権威も絶大だった。

おじいさんは大学でも黒田清輝に師事し、
その後順調に洋画家の道を歩んでいく。
一方の黒田清輝も順調に東京藝大の教授を
長年勤め、国会議員にもなっている。

おじいさんからしたら黒田清輝は画家としての
人生の道を開いてくれたまさに恩人。
合格がどれほど嬉しかったろう、
どれほどありがたかったろう。
孫の私としても黒田大先生にお礼を言いたい。

私の名前は正隆。
私のおじいさんは隆憲。
私の父は清三郎(セイザブロウ)と言う。

父は三人目の子供だからサブロウは
わかるけど、子供の時から
「なんでセイザブロウなんて変な響きなんだ?」と不思議に思ってた。
今回やっと謎が解けた。

清三郎の「清」は、おじいさんが
恩人「清輝」から子供の名前に一文字
もらって付けたに違いない。
それくらいおじいさんは黒田清輝に
恩義を感じてたに違いない。

残念ながら清輝から名前に尊い一文字を
もらった父清三郎には絵の才能はない。
出世もしなかったがその代わり
輪をかけて面白い人物になった。

さぁ、恩人の画集を見てみよう。